1通の手紙

(フィクションです)
 日本からやや古びた画集が送られてきた。19世紀末にファム・ファタルを多く描いたGMのものだ。AG誌別冊美術特集として1991年10月に発行されている。GMは所謂象徴主義を代表する画家であるが、この本が刊行された当時はそれほど注目されていなかったらしく、日本のGM収集家のHM氏は巻末の解説で、安くはないものの、印象派のように投機の対象にはなっておらず、37点の作品を入手することができた、と書いている。この画集をぱらぱらと眺めていると、なるほどHMコレクションというのが散見される。そのうちのひとつに有名なオルフェウスの首を持つ娘のための習作があり、同じページにA4のワープロ打ちの紙が挟まれていた。

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TI様

拝啓
 爽涼の候、益々ご健勝こととお喜び申し上げます。
 さて此の度、A新聞社よりシリーズとして刊行中のAG別冊美術特集西洋編GM特集号に小生のコレクションの一部が収録され、出版されましたので同封させていただきます。お目を通していただければ光栄です。
 一冊の本といたしましては、まことに廉価な為、カラー図版の色調に多少不満は残りますが(筆者注:日本で出版される他の廉価な画集同様、ややくすんだ色調である)、今までわが国において刊行されましたM関係の出版物としましては、その収録作品数においてはおそらく最大です(筆者注:76点)。また、既刊の作品集のほとんどはパリ、M美術館収蔵の未完成作品を中心としていたために、M芸術の真髄を十分に紹介しえなかったのではないかと思われますが、今回は多数の完成作品を収録していることも評価すべきでございましょう。M没後ほぼ1世紀を経た今日、これを機会により多くの人々に彼の作品が再認識され、愛されることと確信いたします。
 また今月17日に当コレクションのささやかな常設場所が横浜山手に落成したことを併せてご報告させていただきます。お近くにお運びのときは是非ともご光臨の栄を賜りたく存じます。尚誠に勝手ながら、小生ただいま海外居住につき、帰国する折々にご案内いたしたく、事前に日程をM画廊のNと御調整いただければ幸いです。
敬具
1991年9月24日
HM(筆者注:ここだけボールペンで自筆)

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 言うまでもなく評価の定まった芸術家の作品を収集できる人物は資産家な筈であり、そのような人物がこのような私信を送る相手は名士の類であろう。実際TIという名はいかにも明治維新の元勲TIを髣髴とさせる。しかしなぜこのような私信が私の手元に届くに至ったのだろうか?このような個人的な所蔵物が私のような第3者に至る経緯を調べることとした。
 この画集は私の母が神田神保町の古本屋で400円で手に入れたものである。神保町は言うまでもなく日本最大級の古書街であり、様々な専門に分かれた古書店が存在し、これらの古書店は蔵書処分者の自宅に直接赴いて査定、下取りを行うという。中に挟まれた私信を確認することもなくこの廉価な本(定価1340円)が店頭に並んでいたことからして、TI氏には慌しく玉石混交の蔵書(そしておそらくその他の財産)を二束三文で売り払わざるを得ない経済的な事情があったのであろう。
 Web百科事典によるとTI氏はかの明治元勲の子孫に当たり、1957年に苗場のスキー場の経営を始め、1965年には湘南にホテルを建設、運営したという。このホテルの共同経営者はサーファーの先駆けである俳優YKとその父KUであり、TI氏はYKの母方の叔父であるという(つまり皆が知っているYKは明治元勲の子孫である)。しかし1970年には早くも経営が破綻し、23億の負債に対し、18億でホテルは売却(YKは残りを10年かけて返済したという)。しかし、TI氏の娘は後に婦人服ブランドを設立するなどしていることから、この破綻によってTI氏が没落したわけではなさそうだ。
 より怪しい某掲示板の情報によるとTI氏は1990年ころ、異母兄弟のTI氏(ややこしい)と共に詐欺事件を起こしたという。もしこの情報が正しいとすると、この画集の出版と同時期である。事件発覚後、被害の弁済のために家財を売り払ったのだろうか?
1枚の紙の由来をめぐって想像は尽きない(ただの出歯亀とも言う)。

追記
さらに検索を進めていくと、TI氏はクラシック音楽家のMM氏の家の隣に住んでおり、2008年の6月に死去したとのこと。ご冥福をお祈りする。MM氏のブログには著名人が多く登場することから、おそらくその交友に見合った地域に住んでいるのではないかと思われる(われながら不快な表現である)。それを考えるとTI氏は最後まで零落することはなかったのかもしれない。画集が売りに出されたのも単にTI氏の死後の財産整理に伴うものなのかもしれない。